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「いき」の誕生 [幕末 江戸]

 

 

 

*戦国グッズ・幕末グッズの侍気分は年初(11日、2日)鎌倉

臨時出店します。どうぞ宜しくお願いします。

 

 

辰巳芸者.jpg

 

 

「バブルファッション:じわじわと スタジャンが若者に再燃」

毎日新聞にこんな見出しの記事がありました。

 

スタジャンに限らずバブル時代のファッションが注目されている

ようです。

バブル期のファッション・・・DCブランド、かなりワイドな肩パット、

女性の太い眉毛と真っ赤な口紅、クルクルヘアー、

強烈なイラストプリントなどなどでしょうか!?

 

江戸でバブルといえば華やかな元禄期(1688~1704年)バブル。

十七世紀末、元禄の世。

富裕な豪商たちが主役となり、奢侈な風俗を誕生させます。

遊里に入り浸る新興の富裕商人たち、芸事に溺れ身を滅ぼす

二代目の若旦那。

紀伊國屋文左衛門などよく知られた元禄商人ですね。

 

以前書きましたが、17世紀に「徳川の平和」を背景に、市場経済の

浸透、婚姻・夫婦の時代到来による人口の急増、耕地面積の拡大など

により江戸の経済は大きく成長します。

 

元禄は高度経済成長を甘受した富裕商人層が演出した華やかさが

ありました。

 

ただこの時代は、これぞ江戸ファッション!ともいうべき江戸固有の

ファッションはまだ見られず、京都風のいでたちが流行の中心でした。

 

18世紀に入るごろから、さすがの経済成長も頭打ちとなります。

加えて財政難に苦しむ幕府は緊縮政策を実行していきます。

貨幣の改鋳、贅沢禁止令・・・

 

バブルがはじけ、江戸文化の様相も変わります。

特権的な商人にかわって、小売商人や職人が進出し、町人らしい町人を

基盤とする江戸文化が誕生していきます。

 

「既説 日本服飾史」という書物にこんな文章があります。

 

「江戸後期には、それまでの上方風の好みとは異なる江戸風の好みが

江戸町人の間に生まれ、やがてそれが「いき」の美意識を成立させた。

多彩で華やかな紋様とは違って、茶・鼠・青を基調とする渋い色合いの

無地や縞や小紋に、黒を効果的に取り合わせるなど、抑制のきいた

外見をもち、内側の衣服に華やかさを秘める好みである」

 

手ぬぐいなどでもお馴染みの江戸柄の誕生ですね。

 

同書によれば、渋い色合いの無地や縞、細密な小紋は江戸の前期には

若い女性の衣服に好んで使われるものではなく、男性もしくは年配の

女性が着るものであったそうですが、18世紀の中ごろから一部の町人

の女房やいさぎよい気風を売りにする江戸深川の芸者衆が着はじめ、

その後一般の女性の間に広まっていったようです。

 

このころには男女の間での衣服の交換・共有もあったようです。

ユニセックス仕様ですね。

 

ただ茶や鼠など地味な色合いと一口でいっても、当時の色合いの

多様さに驚かされます。

 

四十八茶百鼠(しじゅうはっちゃひゃくねずみ)という言葉が

あります。

 

江戸の人たちは茶や鼠色といった色のなかにも極めて微妙な色調の

違いを取り入れ、四十八茶百鼠と言われるほどの多様な色を生み出し

ました。

 

当時の染物職人さんは、色名を言うだけで見事に染め分けたそう

ですからみごとというほか言葉が見つかりません。

 

 

今景気回復を伝えるニュースも少しずつですが目につき始めています。

平成ファッションにも今後変化がみられるのでしょうか!?


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江戸の美人マニュアル [幕末 江戸]

*戦国グッズ・幕末グッズの侍気分は年初(11日、2日)鎌倉で

臨時出店します。どうぞ宜しくお願いします。

 

 お歯黒.jpg

 

もし女性が結婚指輪をしていなければ、外観から彼女が未婚か既婚か

判断することはできません。

女性の雰囲気から鋭く判断される方もいるでしょうが、普通はわかり

ません。

 

江戸時代であれば、判断は容易です。

未婚女性は自然のまま白歯でしたが、既婚女性であればお歯黒を

使って歯を黒く染めていました。

多くの地域では既婚女性の証として眉もそり落としていました。

 

お歯黒は、酢酸に鉄を溶かしたものにタンニンを含んだ粉をといて

つくられる文字通り黒い非水溶液で、かなり強烈な刺激臭がします。

 

このお歯黒は古墳時代から特に上流の階級で習慣化されていたようで、

戦国武将が合戦前の死に化粧としてお歯黒を施していた

記録もあります。

 

江戸時代には、お歯黒の黒色が「何物にも染まらぬ色」であること

から、既婚女性の貞節の証として、庶民にもその習慣が広まります。

 

行灯の本当に仄かな光明の中で、お歯黒は女性を奥ゆかしく美しく

みせるという見方があるようですが、やはり現代の感覚からはちょっと

不気味な感じがします。

 

江戸の美人、現代とちょっと違いましょうか?

 

ちょっと前置き長くなりましたが、以前面白いテレビ番組を見ました

のでご紹介します。

BS番組の「江戸のすすめ」です。

 

江戸時代と一口に言っても、美人の尺度は年代によって

変わってきます。

 

元禄(16881704)の時代、ふっくら系が好まれます。

顔は丸顔、ちょっと豊かな腰つきが人気です。

 

明和(17641772)の時代、ほっそり系が憧れです。

小顔で柳腰がグッドです。

痩せたい願望でお酢を飲むなどのダイエット法が喧伝されます。

 

天保(18301844)の時代、何といってもセクシー系。

あごがとがった逆三角形の顔形、艶めかしさがポイントです。

 

ただいつの時も、一番の決め手は白い肌です。

 

これは日本に限らず、タイなどほかのアジア諸国でもそうですが、

高貴な人は色白であるとの共通認識があったためでしょう。

お屋敷からは外に出ず、太陽のもとで働くことのないセレブリティ

への憧れが色白願望に結びつきます。

 

番組では当時の女性が自家製の美白美容液を作る姿を

紹介していました。

イバラという白い花を蒸し、その水蒸液を顔に塗り、美白を祈ります。

 

かなり必死です。

 

「都風俗化粧伝」という1813年に初版が刊行されてから、関東大震災

で版が焼失されるまで長い年月にわたって女子の人気を得てきた

美容マニュアル本があります。

 

前書きには、残念ながらあまりさえていないルックスでも、

この本を読んでちゃんと実践すれば、貴女も素敵な女性に

なれるとあります。

 

「厚めの唇を薄くみせる化粧法」「低い鼻を高くみせる化粧」

「少女の時の肌を取り戻す」・・・などなど今でもお馴染みの

項目が並びます。

 

現代と変わりません。

 

番組に出演されていたポーラ化粧品の方によれば、現代の化粧法は

すでに江戸期には確立されていて、違いは使用する材料

だけだそうです。

 

ちょっと意外だったのは、当時は大きな瞳はあまり好まれて

いなかったことです。

同書指導によれば、「大きな瞳が嫌で、無理に目を細めれば目つき

が悪くなる。

立っているときは1.8メートル先を、座っているときは90センチ先を

見つめなさい。

自然と目が細くなりますよ」とのことでした。

 

「容顔美艶考」という女子マニュアル本も紹介されていました。

こちらは女子のとるべき振る舞いについても言及しています。

 

「お芝居を桟敷席で観劇するときは、前に乗り出さないように気を

付けなさい。下の席から貴女の鼻の穴が見えてしまいますよ・・・」

 

こんな色っぽいご指導もあります。

 

新婚初夜の心得です。

 

「耳の中まで念入りに化粧しなさい。化粧は少し厚めが良いでしょう」

 

何故か?

 

「初夜の時、貴女は恥ずかしくて、顔を横に向けることでしょう。

(旦那さんから貴女の耳が良く見えますから)耳の化粧は念入りに

しなさい。

きっと貴女の顔は上気し赤くなりますから、化粧は厚めが良いのです」

 

かなり念入りなご指導でした。


6度の結婚をくりかえした伝二郎さん [幕末 江戸]

*戦国グッズ・幕末グッズの侍気分は年初(11日、2日)鎌倉で

臨時出店します。どうぞ宜しくお願いします。

 

農民.jpg

 

信濃国湯舟沢村(現岐阜県中津川市)に一組の夫婦がいました。

夫の八郎は戸主の伝七の弟で初婚。

妻なべは他村の生まれだが、父の死去で母とともに湯舟沢村に

戻ってきた。

なべもまた初婚でありました。

二人が結婚したのは1745年。

41年の歳月をともに過ごした後、1785年夫の伝七の死によって

二人の結婚生活は終わりました。

 

なべは21歳の時に伝七のもとに嫁ぎ、42歳に至るまでに7人の子を

生みました。

そのうち3人の女の子は早逝しましたが、残る4人の子供たちは無事に

成人を迎え、2人の女子は隣村に嫁ぎ、2人の男子は湯舟沢村で伴侶を

得ました。

 

同じく湯舟沢村に生まれた伝二郎は八郎・なべ夫婦とは対照的な人生

送ります。

 

伝二郎は1739年、21歳で初めて妻を迎えます。

相手は同じ村のしわという名の15歳の少女。

翌年しわと離縁。

しわは実家に戻り、翌年村内のまた別の家へ17歳で嫁ぎます。

伝二郎は離婚2年後の1742年に隣村から19歳の妻を迎え入れますが、

この結婚も短期間で終わります。

与兵衛で名前を変えた伝二郎は、1751年に3回目の結婚をします。

村内のたけ、年齢18歳。

二人の間には与藤次と名付けた男の子が生まれますが、1757年に

二人は離婚。

たけは与藤次を伝二郎の家に残して実家に帰ったのちに、25歳で

隣村に嫁ぎます。

(省略します)

伝二郎の6度目、最後の結婚は1767年伝二郎49歳の時でした。

結婚の翌年にはあきという名の女の子が生まれます。

この最後の結婚はなんと15年続き、1782年伝二郎の死去で終了します。

 

この1組の夫婦と一人の男は、鬼頭宏氏の「人口から読む日本の歴史」

という著書に登場します。

鬼頭氏は歴史人口学という学問分野の高名な先生だそうです。

歴史人口学とは同著によれば、「過去の人々が何歳で結婚し、

何人の子を生み育て、どこからどこへ移動したというような、

人々がその一生のうちに経験するあらゆる人口学的行動が研究対象

となる」学問です。

 

江戸時代の人口史気研究にとって宗門人別改帳は貴重な情報をもたら

情報源で、八郎・なべの夫婦、伝二郎のこともこの宗門人別改帳に

記されています。

宗門人別改帳は戸口調査としての人別帳と信仰の取り締まりを目的

とした宗門帳の重合によって生み出されたものです。

 

同著ではこの宗門人別改帳をデータベースとして江戸期庶民の人生を

解き明かしていきます。

 

非常に興味深い本です。

 

名もない庶民の姿が浮かび上がってくるようです。

 

伝二郎さんは、ちょっと極端かもしれませんが、江戸期の離婚率は

現代より高いというのが定説のようです。

 

離婚率の高さは庶民だけではなく武士も同様です。

磯田通史氏著「江戸の備忘録」によれば、正確な記録の残る愛媛

宇和島藩士32人について調べると、なんと4割が離婚経験者。

 

意外にも結婚は一生ものという観念が定着するのは

明治後期以降だそうです。

統計のある国の中では、明治半ばまでの日本は、世界最高レベルの

離婚大国だったそうですよ。

 

八郎さん・なべさんご夫婦は3人の子を幼く亡くしています。

 

江戸時代の平均寿命は短くおおよそ38歳程度です。

もちろんこれは、乳幼児の死亡率の高さが影響しています。

高い乳幼児の死亡率をカバーし人口が維持されるには、高い出生率

が必要となります。

江戸時代、4人から5人の子を産まないと人口を維持できなかった

との研究もあります。

20歳ごろに結婚し、50歳まで結婚を継続した夫婦は普通少なくとも

5人から6人の子供を作ったそうです。

 

また当時は男より女の平均余命が短かった。

出産は女性にとって大きなリスクとなっていました。

 

 

湯舟沢村の八郎さん・なべさんご夫婦、伝二郎さんとも、

ほんの数ページのお付き合いでしたが、とても印象に残りました。

 

 

 

 

 


侍の威厳 [幕末 江戸]

 

昔読んだ本に明治のある老婆の話がありました。

 

その老婆は江戸幕末期の侍の姿を回想して、

「そりゃ、侍は全然わしらと違って雨が降っても走らないし、辻角を

曲がるときも、前を見据えて直角に曲がる」というようなこと話して

います。

 

侍は侍としての威厳を保たねばならない。

 

それが侍をつくる。

 

 侍政府.jpg

 

一方で、こんな話も思い出します。

 

幕末維新が終わり、日本は新政府の体制作りに懸命でした。

中央、地方で行政組織を‘突貫工事’で整えねばなりません。

人材がいない!

 

そのため、さして維新の時にも活躍のなかった無名の人物でも

行政の要職に登用されました。

中には人物風采に疑問符が付く人物もおりました。

 

新政府の今でいうところの人事担当者が、確か大久保利通

(すいません記憶定かでありません、いずれにせよ政府の高官です)

に対し「候補者Aはどうにも役職に相応しい威厳がない」

と困り顔で相談。

これに答えて大久保は「そのものを体裁の良い馬車にでも乗せて、

東京の街中を一日回らせれば、自然と威厳などつくものだ」

と答えています。

 

以上、威厳についてとりとめのない話をしてしまいました。


まことの武士 [幕末 江戸]

 

「八重の桜」

綾野剛さん演じる病身の松平容保公が、

「武士の忠義を貫き通したかわりに、わしは会津を死地に追いやった」

との心情を打ち明けます。

これに答えて、玉山鉄二さん演じる山川浩は、

「あの時徳川を見捨てれば、‘まことの武士’などいなかったことに

なります。」と訴える。

 

ここ最近私が読んでいる江戸中期の本にも多くの武士が登場します。

戦国の世は遠くすぎ、武士の集団は行政機構となり、腰に差した刀も

武士身分を証明するバッジのようなものです。

彼らは侍のイメージとは随分と異なり、現代の会社員とその生態に

大きな差がないようです。

 

職場での人間関係、出世、単身での江戸赴任・・・

いくさの無い泰平の時代にマッチした振る舞いや人間関係が求められ

ます。

 

しかし武士はあくまでもその本領は戦士であり、また統治者です。

武士としての面目を保たねばなりません。

武士としての規範の順守が求められました。

 

長岡藩家老の河井継之助を描いた司馬遼太郎の「峠」。

そのあとがきにこう記述されています。

 

「ひとはどう行動すれば美しいか、ということを考えるのが江戸の

武士道倫理であろう。ひとはどう思考し行動すれば公益のために

なるかということを考えるのが江戸期の儒教である。この二つが

幕末人をつくりだしている」

 

「幕末期に完成した武士という人間像は、日本人がうみだした、

多少奇形であるにしてもその結晶のみごとさにおいて人間の芸術品

とまでいえるように思える」

 

中でも会津藩は江戸期においてもっとも士道の気風が徹底された

藩の一つでした。

 

西島秀俊さん演じる山本覚馬は言います。

「薩長にも義はあった」

 

山本覚馬.jpg

山本覚馬

 

幕末期、

薩長、幕軍、会津・・・

掲げる義は異なっても、侍たちが多くのドラマを生み出します。

 

武士が姿を消して140余年。

 

今でも日本代表チーム、その呼び名は「侍ジャパン」ですね。


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