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江戸の旅行エージェント [幕末 江戸]

 

「最も往来が激しい東海道のような街道は、ヨーロッパのどんな

にぎやかな都会よりもさらににぎわっていることを読者の皆さんに

保証する。この国の人々が自ら好んで、あるいは必要に迫られて、

旅に出ることの頻繁さといったら、恐らくどの国の国民よりも勝って

いるだろう」

 

1690年に長崎蘭館の医員として来日したケンペルが「日本誌」の中で

記している。

 

江戸期、人々は続々と旅に出ます。

街道筋の宿泊施設の整備にともなって江戸中期から庶民の旅も活発に

なってきます。

旅人が日本国内を盛んに歩き回りはじめた背景には、

ある旅行エージェントの存在があったようです。

 

そのエージェントとは御師(おし)です。

 

(現在放映中の大河ドラマ「軍師 官兵衛」にも御師が登場します。

尾藤イサオさん演じる広峯神社の御師 伊吹善右衛門です。

竜雷太さん演じる黒田重隆が家伝の目薬を広峯神社の御師に託し、

御師がお札に添えて販売します。

眼病に効果てきめん?の黒田印の目薬は大ヒット商品となり、

黒田家発展の基盤をつくったと伝えられています。)

 

お伊勢参り.jpg

 お伊勢参り

 

御師は社寺の神官ですが、その信仰を広めるためにかなりの遠方まで

お札を配り祈祷をおこなって、信者を獲得し初穂を集めました。

 

御師はまた社寺への参詣の勧誘や参拝や宿泊の手配、案内も

おこないました。

御師は社寺の営業マンであり、添乗員でした。

 

御師の活躍もあり、遠く離れた地にある有名社寺への信仰集団(講)

江戸期には多く発展します。

有名な講には、伊勢講を筆頭に富士講、熊野講、大山講、金毘羅講や

日光講などがあります。

御師はそれぞれ講に所属する人(講員)の家をまわり、初穂を集め

たり参拝の勧誘をするわけです。

 

一生に一度は行きたいお伊勢参り。

 

お伊勢参りを案内してくれるのが神宮の御師(伊勢の場合はおしでは

なく‘おんし’と読むそうです)です。

 

御師は、参拝者の出迎えから道案内もしてくれますし、豪華な

宿泊施設贅沢な食事も提供してくれます。

帰りにはお土産まで頂戴し、まさに至れり尽くせりの扱いです。

 

講員はおよそひと月ほど(他所もゆっくり観光すればプラス5~10日)

の旅を終えてたくさんのお土産話を持って帰っていきます。

                                                                                                                     

「○○の国では○○に○○をかけて飯を食うんだよ、信じられね~」

「○○宿の○○って遊女は本当に情があって良かったな~」

「○○が凄いって評判だから見に行ったが、江戸の○○の勝ちだな」

 

本当に出来ることならまた行ってみたい旅ですが、

ちょっと無理な相談でしょう。

 

旅費が高額です。

旅は順番なのです。

 

旅費捻出のカギは講の相互扶助システムにあります。

講員は毎月少額のお金を積み立てます。

お金が貯まったところで厳正なくじを引き、くじに当たったものが

講員を代表してお参りに行けます。

すでにお参りに行ったものはくじを引けません。

次はお土産話を聞いて、目を輝かせる○○さんの番です。

 

 

遠方への旅へはそうそう行けなくとも、江戸の庶民はお弁当持参の

ワンデイトリップにはよく出かけたようです。

江戸は市街地の範囲が狭いため、歩いて行くことのできる風光明媚な

場所が多くあり、庶民は気楽な遊山を楽しみました。

日本橋から1時間かそこら歩けば郊外に出て、ちょっとしたピクニック

気分を味わえたでしょう。

旅ともなれば1日に30キロは歩く健脚ぶりを発揮する人々ですから、

朝ごはんを食べてから家を出て、郊外で遊山を楽しんでまだ明るい

うちに帰宅することはじゅうぶん可能だったわけですね。

 

 

*お読み頂き有難うございます。

宜しければ、戦国グッズ・幕末グッズの侍気分のHPはこちらを

ご覧下さい。

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大岡越前と江戸のお白洲「逮捕されるとどうなるか」 [幕末 江戸]

 

「その方重々不届きにつき市中引き回しの上、打ち首獄門に処する!」

厳しい表情を浮かべ判決を申し渡す大岡越前。

がっくりと肩を落とす悪商人の○○屋。

 

ご存知、大岡越前。

 

大岡越前守忠相(ただすけ)は、延宝5年(1677年)に2700石の

旗本の家に生まれ、36歳で伊勢の国の山田奉行に着任。その後普請奉行

を務め、吉宗(暴れん坊将軍です)が徳川第8代将軍職を継ぐと

江戸町奉行に累進、以後19年の長期にわたり町奉行職を務めたのち

寺社奉行となり、ついには三河国西大平(現在の岡崎市)に陣屋を置く

1万石の大名に登りつめます。

 

出世街道を邁進したエリート中のエリート官僚です。

 

町奉行職在任中は吉宗が進めた享保の改革をよく支え、その行政手腕が

高く評価されています。

 

大岡越前守のおこなった公正で人情味ある裁き(大岡裁き)は

時代劇でもシリーズ化され人気です。

 

大岡裁きには多くの逸話が残されていますが、

特に有名なのは「子争い」の名裁きでしょう。

 

2人の女が「この子は私の子どもです!」と互いに譲らず、

実母であることを主張します。

大岡越前はこの2人の女にそれぞれ子どもの片方の手を

掴むよう命じます。

 

「お前は右の手を、そっちの女は左の手を掴め。互いに子どもの

腕を引っ張り勝った方が実母である」

2人の女が双方から手を引っ張りますから子どもは痛がって泣きます。

一方の女が泣く子を憐れみついに手を放します。

 

 大岡越前がそれを見て審判を下します。

「子をおもい思わず手を放したおまえこそ実の母親だ」

 

 

もうひとつちょっといい話(?)

 

不貞を働いた男女。

「自分に非は無い。誘ったのは女の方だ!」

男は必死の釈明をします。

男の釈明に今一つ納得のいかない大岡越前。

女がちょっとご年配だったようです。

 

困った大岡越前は自分の母親に

「はたして女性の性欲は幾つになるまであるものでしょうか?」

と問いかけます。

問われた母親は静かに火鉢の灰を箸でかき回した。

 

灰になるまで

 

母より解答を得た大岡越前、この不貞事件を見事に

解決したのであります。

 

これにて一件落着!

 

 大岡越前.png

 TBS時代劇 大岡越前

 

 

ちょっと江戸のお裁き(刑事事件)について。

 

刑事裁判の手続きを吟味筋と言います。

吟味筋の一連の手続きは、犯罪捜査・事実の審理・刑罰の決定・

判決の申渡し・刑の執行です。

現在と大筋変わりません。

 

犯罪捜査の主力は同心と同心が私的に雇う目明し(岡引)です。

*同心、目明しについてはよろしければ

「必殺 中村主水の表家業と目明しについて」をお読みくださいね。

 

刑事事件が発生して容疑者が特定されると、同心・目明しが被疑者を

捕縛して、自身番屋に連行します。

時代劇で○○親分が「おい、お前ちょっと番屋まで来い」と言って

連れ込む小屋です。

ここで取り調べが行われ、有罪の嫌疑が濃厚となれば被疑者は

町奉行所送致されます。

 

ここより町奉行所に送られた被疑者の吟味が始まります。

取り調べ(吟味)の最初の席には町奉行が出ますが、

あとは下役に任せます。

被疑者には未決拘留の処置がとられ、牢屋に入ります。

「吟味中は入牢を申付ける!」

 

江戸の牢屋は小伝馬町にありまして、全国最大規模です。

封建の世ですから、身分によって牢屋の部屋の格式?も異なります。

江戸の刑罰には禁固刑、懲役刑は基本ありませんので、

牢屋はあくまで未決拘禁の場所で、刑罰としての入牢はありません。

牢屋は現代で言えば刑務所ではなく拘置所です。

 

牢内の待遇はかなりひどいものであったようです。

多くの牢内病死者が記録されています。

 

さて、その後の取り調べですが、これは町奉行所の吟味方の与力が

行います。

取り調べは事件の関係者一同の自白を得ることに主眼が置かれます。

江戸時代、自白は何物にも勝る確定証拠となりますので、

自白を得るための拷問も行われました。

ただ、自白を得るためにむやみに拷問に頼るようでは、吟味方の役人

しても自分の取り調べ下手を宣伝してしまうようなものですから、

時代劇でしばしば見られる‘気分しだいの拷問’は

なかったものと思います。

 

吟味方与力たるもの「落としの山さん」の称号

欲しかったはずでしょう。

 

自白が得られれば、供述書(口書くちがき)が作成されます。

その後供述書の最終確認を奉行が出座して行います。

お白洲での審問です。

関係者一同の前で供述書が読み上げられ、供述内容確認の捺印(爪印)

がされます。

犯罪事実がこれにより正式に確定されます。

 

以後、この供述書をもとに書面審査で刑罰が決定されます。

奉行が判決を考えるのですが、奉行が自分一人の権限内で判決を

言い渡せる範囲は中追放という刑罰までです。

重追放以上に重い刑罰を言い渡すには老中(現代の大臣に相当)の許可

必要でした。

また老中といえども遠島や死刑の判決を決定するには将軍の許可を必要

としました。

大岡越前も金さんも勝手に罪人に死刑宣告することは

できなかったわけです。

刑罰の決定は法典、過去の判例をもとにかなり厳密に行われます。

 

判決が決まると、その申し渡しがされます。

判決申し渡しは、奉行所のお白洲で奉行が口頭で下します。

これで落着です。

上訴の制度はありませんでした。

また死刑については奉行所ではなく、牢屋内で検使与力が申し渡しを

おこない即座に執行されました。

 

石井良助氏著「江戸の刑罰」より江戸の主な刑罰をみると、

以下のように分類されます。

 

生命刑(磔、獄門、火罪、死罪、下手人・・・)

身体刑(剃髪、たたき)

自由刑(遠島、追放、閉門、晒・・・)

財産刑(闕所、過料)

身分刑(奴、一宗構・・・)

栄誉刑(役儀取上、叱)

 

冒頭の「市中引き回しの上、打ち首獄門に処する!」に戻ります。

 

引き回しは死罪以上の判決を受けた罪人に課された付加刑で、

その行程(引き回しのルート)も決められていました。

獄門は打ち首となったあと、死体は試し切り(刀剣の切れ味を試す、

その専門職として山田浅右衛門が時代劇などでも有名)とされ、

刎ねられた首を3日間さらす刑罰です。

 

現代からすれば考えられない過酷な刑罰だったのです。

 

人柄温厚な大岡越前も時として峻厳な判決を下したのであります。

新撰組の稽古と斬り合う侍 [幕末 江戸]

  

新撰組の近藤勇は数えで28歳の時に天然理心流4代目を襲名、

天然理心流試衛館の若き道場主となった。

近藤勇は道場に通う門人たちにたいし、「剣とは技よりも気組みである」

と常々教えたそうです。

「剣の勝負は気合のおしあいで決する。」

まさに実戦の剣に優れた新撰組の局長に相応しい言葉でしょう。

 

同じく新撰組の土方歳三も「斬りあいは腕でやるものではない、相手に

ぶつかっていくものだ」との言葉を残しています。

 

新撰組の稽古は常に実戦を意識したもので、例えば室内で向き合い

酒を飲んで談笑しているとき、相手がいきなり刀で斬りかかってくる

といった状況設定をして、その対応をはかるような稽古もおこなわれて

いたようです。

また彼らは稽古の際、竹刀や木刀を使わずに主に真剣を刃引きした刀を

用いたそうです。

 

近藤勇.jpg

近藤勇

 

刀で相手を斬るためには、当然ですが自分の刀が相手に届く位置まで

近づかねばなりません。

そして当然のことながら、こちらの刀が相手に届くということは、相手

刀も自分に届くということです。

 

幕末の侍たちは真剣で斬りあう時の緊張感、恐怖感をどう感じたので

しょうか。

 

綱淵謙錠著「幕末風塵録」という本に、侍の斬りあいの目撃談が

あります。

こちらの話は現代人にもリアル感があり興味深いのでご紹介します。

 

慶応4年(1868年)の戊辰戦争。

現在の福島県白河で会津軍と新政府軍が戦ったとき、目撃者となる

人物は戦禍を逃れるため避難中でした。

その避難中、偶然に2人の侍の斬りあいを目撃することになります。

 

「1人は会津の侍、もう1人は新政府軍(官軍)の方でした。わしは

恐ろしくて、震えながら崖の上の木立の間からそうっと見ていました。

彼らはお互い名のりました。30歳前後の侍でした。刀を抜き合うと、

シャリーンと刀の先が触れ合いました。それと同時に後ろに2、3歩

退きました。退くと両人は狙い合うようにして動きません。

そしてまた2,3歩ズズッズズッと前へ進み出ると刀の先がシャリーン

と触れ合います。すると2人の侍はまた後ろに数歩後退しました。

2人の侍はおたがい真っ青になり、肩をいからし動きません。

2人の荒々しい息づかいが20メートルほど離れた私の耳元にも

聞こえてきます。

どのくらいの時間が過ぎていったのか夢中で見ていた私には

わかりませんが、またシャリーンという音を聞いた時にどちらかの侍が

叫び声をあげました。

再び刀を打ち合う音がしばらく続き、やがて地響きがするように

2人の侍が共倒れするのを見て、私は思わず目をふさぎました」

 

幕末史に残る数々の事変は、この極度の緊張と恐怖の中で侍たちにより

展開されたのでしょう。

お読み頂き有難うございます。今年度もよろしくお願い致します。

 


侍のお正月 [幕末 江戸]

侍気分は明日、明後日 鎌倉で臨時出店します。

詳しくは侍気分HPをご覧ください。

 

千代田の正月.png 

 

江戸期、武家屋敷では暮れの28日の早朝に門飾りにとりかかった

そうです。

町人の気が早い輩は12月になるのを待ちかねて門松をたてたそうです。

 

門松は元来、年神様を家に迎え入れるための依り代で、江戸期の門松は

松の先を切らないで、地面からそのまま随分の高さのものが飾られて

いたようです。

中でも吉原遊郭に飾られた門松は立派で、空をつくような大きなものが

飾られたようです。

 

現在では、家の門に葉の無い竹を立て、根元に松を添えるのが普通ですね。

竹の先端部分は槍の切っ先のように斜めに鋭く切ってあるものが多いです。

文字通り竹槍のような塩梅です。

 

この竹の先端を鋭く斜めに切ったのは、徳川家康が武田信玄に大敗を

喫した

三方ヶ原の戦い(元亀31222日)のときの故事に由来する

そうです。

 

戦に大敗し、家康は命からがら浜松城に逃げ帰ります。

元亀4年元旦、武田方より家康のもとに元旦の祝いの句が届けられます。

 

句は「松枯れて 竹たぐいなきあしたかな」。

松は松平(徳川の別称)、竹は武田。

徳川は衰亡し、武田の将来はいよいよ盛んであるとの意味です。

 

読み上げられた句に消沈する家康家臣の中にあって、家康四天王のひとり

である酒井忠次が「武田め、何をうたうか!正しき句はこうだ!」と叫び、

一句読み上げます。

 

「松枯れで 武田首なきあしたかな」

 

徳川方の意気はこの句のおかげでおおいにあがったそうです。

やがて武田を滅ぼした徳川は、竹の上端を(首を刎ねたように)鋭く

切った門松を、開運のしるしとして飾ったそうです。

おめでたいというより、むしろ怖い由来ですね。

 

磯田通史「江戸の忘備録」に侍の正月について面白い話がありました

のでご紹介します。

 

同書で今の年賀状の習慣は、江戸の侍の風習に根ざしていると推察

されています。

 

江戸期の侍は年賀状を書く必要はありませんでした。

侍は区割りされた一角に住んでいたため、正月になれば年始回り

と称して手に名刺を持って同僚の屋敷を20軒程度挨拶して回った

そうです。

名前の右肩部分に「謹賀新年」と書き込んだ名刺をお互い同僚の

留守宅(主人は挨拶回りで不在)に置いて回るそうです。

 

商人などは名刺代わりの手ぬぐいや扇子を置いて回ったらしい。

明治の世となり、侍たちもそれぞればらばらになると、互いの家も

離れ、正月の名刺配りもできなくなったため、賀詞を添えた名刺

を封筒に入れて送りつける。

 

明治6年に郵便はがきが誕生すると、はがきを名刺に見立て郵送

し始めます。

 

つまり年賀はがきのもとは年賀名刺であったとの推察でした。

 

江戸の後期にはすでに侍の間でもお年玉の習慣もあったようです。

お年玉といっても大人のお年玉です。

 

年賀の挨拶を受ける家では、年賀にきたお侍さんのお供の人たちに

お金を包んでわたしたそうです。

結構な出費だったでしょう。

 

侍は通常時代劇にあるように1人で外出しません。

年賀の挨拶も数名のお供を連れていきます。

 

例えば江戸町奉行所の与力(必殺シリーズ中村主水の上司である

中村様のポジション)が元日に奉行のところに年始の挨拶に行くときも、

大小の刀を差した若党1名の他に御用箱持ち1名、草履取り1名、

槍持ち1名、挟箱持ち1名など合わせて4,5名のお供を連れて

いきます。

 

 

お読み頂きまして有難うございます。

皆様、良い新年をお迎えください。


江戸のホテルに泊まれば [幕末 江戸]

 

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鎌倉にて臨時出店致します。詳しくは侍気分HPをご覧ください。

 

 

 呼び込み.png

 

イザベラ・バードという英国の女性旅行家がいました。

彼女は1878年に日本の東北地方を旅し、「日本奥地紀行」という本を

著しました。

恐らく東北を旅した最初の西洋人女性でしょう。

 

彼女は旅の先々で人々の好奇の目を集めます。

彼女が秋田の神宮寺村(現大仙市)に宿泊した時の様子について、

同著にこんな記述があります。

「神宮寺の宿屋に宿泊すると、夜中に人の気配がして目が覚めた。

およそ40人もの男女が部屋の障子を取り払い、私の寝姿を黙って

見入っていた」

当時の人々の好奇心は理解できるのですが、これは少し怖すぎます。

 

障子を外せば容易に宿泊者のプライバシーを覗きこめてしまう宿屋。

これは宿泊者にとって不安なことです。

 

ちょっと江戸の宿屋の話です。

バードが旅した明治10年の宿屋、江戸期のそれと変わらぬはずです。

 

江戸時代、一般の旅人が泊る宿屋は旅籠(はたご)と呼ばれます。

街道筋の宿場には本陣と称する宿屋がありましたが、こちらは大名や

公家など身分の高い人が利用するものです。

江戸も18世紀後半にもなれば、「伊勢参り」や「金毘羅参り」に

代表される「信仰の旅」から(あるいはこれを口実とした)、

「娯楽の旅」が盛んとなり、有名寺社の周辺や街道筋にも多くの旅籠

が並びます。

 

旅籠の多くは飯盛り女と称する娼婦をおいており、これをおかない

旅籠は平旅籠と区別されています。

他、宿泊の目的により宿屋の種類もいくつかありますが、一般的な

旅籠についてちょっと書きます。

 

相部屋はかなり普通にあったようです。

客で混雑すれば相部屋になり、全くの赤の他人と枕を並べて寝る

ことになります。

もっとも冒頭のバードさんの旅行記にもあるように、間仕切りに

ふすま・障子が利用され、壁がなかった旅籠ではプライバシーがない

という観点では相部屋でなくともあまり差がないのかもしれません。

となり部屋の声も筒抜けです。

 

当然ながら当時の旅人も特に相部屋になるときには、相宿の相手の

身なり、振る舞いを注意深く観察し用心を怠りません。

盗難も頻発していたらしいですから、用心が肝要です。

 

 

食事は晩飯と朝飯が提供され、頼めばお弁当も作ってくれます。

部屋食が一般的で、宿泊者が一堂に集まり食事をとるということは

なかったようです。

一部の料理宿(グルメ宿)を除けば、旅籠の料理はさほど大差なく

ごく普通であったようです。

 

 

元禄期には旅籠にお風呂がもうけられていたようですが、衛生上問題

のあったものも多かったようです。

沸かし湯にしてもどの程度の頻度で湯を沸かしていたかはなはだ疑問

で、小さな風呂桶に入れ替わりに宿泊者が入浴するのであまり衛生的

とは言えなかったようです。

 

 

寝具は敷布団一枚に掛布団が一枚。

寒ければもう一枚掛布団が提供されます。

この時代、シーツなどはなく、浴衣の提供も一般にはありません。

 

旅籠の寝具についていえば、ノミ・シラミが宿泊者を悩ませた記録が

多く残っています。

いったんお客がノミ・シラミを持ち込めば、有効な消毒薬のなかった

当時では根絶は困難だったのでしょう。

 

 

最後に気になる宿泊料金ですが、現在の価格でおおよそ45千円が

普通だったようです。

今のビジネスホテルの料金と比べると、同程度か幾分安めでしょうか。
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