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鎌倉と島津家 [戦国]

近世島津家資料では初代忠久は源頼朝のご落胤(庶長子)とされる。かって鎌倉八幡宮近く若宮大路沿いに存在していた本陣大石の宿帳「御屋形様御参詣並御名代記留」に忠久と頼朝の命日に墓参した西郷どんでおなじみの家中の名が記されている。画像は「鎌倉77,78号」に掲載された平田恵美氏の寄稿文、宿帳の一部です。


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石田三成 「義は我にあり!」 [戦国]

捕らえられた石田三成は洛中を引き回され、六条河原の刑場で処刑される。

刑場に向かう三成は喉が渇き、警護の者に白湯を求める。

警護の者は白湯の代わりに、持ち合わせた干し柿を三成に差出した。

 

「白湯は用意できない。喉が渇いているならこの干し柿を召されよ」

 

三成は「干し柿は胆の毒(腹を冷やす)であるからご遠慮する」

と断る。

これを聞いた警護の者は「これから首を刎ねられるものが腹を気遣う

とはまことに笑止」と三成を嘲笑した。

すると三成は「お前らのようなものには理屈通りかもしれないが、

大義を思い、抱く本望の達成を望むものは首を刎ねられるその瞬間

まで命を大事にするものだ」と言い放った。

 

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 石田三成肖像画

 

慶長5年(1600年)915日午前8時、関ヶ原にて先端の火ぶたが、

切って落とされた。

 

当時、時代の気運は新たな秩序と統一を求め、徳川時代の集権体制へ

向けてカウントダウンが始まっていたが、天下をめぐる情勢は依然と

して流動的ではあった。

 

関ヶ原の決戦は日本全国の大名を巻き込んだ天下の趨勢を決定づける

まさに天下分け目の戦いとなった。

 

東軍の総大将徳川家康は255万石の大大名。

豊臣家臣団の中で他を圧倒する勢力を誇っていた。

 

一方西軍の実質的な大将は石田三成。

禄はわずか近江佐和山194,000石。

 

家康はその圧倒的な勢力を背景に、恩賞を約して豊臣恩顧の諸大名の

取り込みをはかる。

家康が諸大名に出した手紙の総数は実に260通を超えるそうです。

 

一方三成は亡き太閤秀吉への恩義の名のもとに西軍勢力を結集させる。

後に捕らわれの身となった三成が、

「宇喜多秀家、毛利輝元をはじめ同心しない者を強いて語らって

軍を起こした」と語ったように、西軍は実態として三成が演出した

軍勢であった。

 

関ヶ原の決戦はわずか1日で決着をみます。

 

小早川秀秋の裏切りにより膠着していた戦局は一変し、東軍勝利に

決したと伝えられます。

 

三成は関ヶ原の戦場を落ち延び、大坂での再挙をはかります。

 

「石田三成を捕らえた者には褒美として年貢を永久に免除する」

厳しい家康の三成捜索が開始されて6日目、三成は東軍兵士に

捕らわれます。

 

冒頭の話は、捕らわれ刑場に向かう三成に残された逸話です。

 

今井林太郎氏著「石田三成」に三成最期の時をめぐる逸話が

紹介されています。

 

浅野幸長が、細川忠興が、福島正則が・・・

東軍についた大名たちは、三成が‘無用な乱’を引き起こしたことを、

敗北のあとも自害せずに逃げ延び捕縛された様を非難し、嘲笑します。

 

三成は重ねて昂然と答える。

「この度の戰は豊臣存続のため徳川殿を打ち滅ぼす義戦であった。

徳川殿打倒の機会を掴むため生き延びる事こそ大志を抱くものの道だ。

ただ討ち死にを望むは下級武者の振る舞い。自分が敗れたのは全くの

天運であった。」

 

残された逸話からは、三成の強烈な自負心がうかがわれます。

 

秀吉亡き後、多くの秀吉恩顧の大名が家康になびく情勢下で戦われた

関ヶ原決戦は、確かに石田三成のみが成しえた戦いであったと

思われます。

 

豊臣の命運を担い、戦い敗れた三成は揺るがぬ信念を抱いて

いたのでしょう。

 

豊臣政権の存続にこそ大義がある。

「義は我にあり!」

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お読みいただき有難うございます。

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中国大返しと戦国の使者 [戦国]

天正10年(1582年)6月3日の夜半、備中高松城を囲む秀吉のもとに、

前日2日早暁 明智光秀謀反により織田信長が本能寺にて死すとの情報が

もたらされる。

 

秀吉は素早く毛利側と講和を結び、翌日4日に備中高松城を開城させると、

光秀討伐のため京を目指し全軍を移動させる。

7日には本拠姫路城に帰着。

ここで在庫する金銀米銭を残らず将兵に分配、姫路での籠城戦の

意思は無く、光秀との乾坤一擲の決戦に打ってでる決意を将兵たちに示す。

 

天正10年(1582年)6月13日、山城の国山崎で会戦、

1日にして光秀を倒す。

本能寺の変報をうけて、実におよそ200kmの行程を駆け抜け、

わずか10日後に光秀との天王山の戦いに勝利した秀吉。

世に名高い秀吉の中国大返しです。

 

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 羽柴秀吉肖像画

 

ところで、秀吉陣営に本能寺の変の情報を知らせたのは、信長の家来で

京の政商・長谷川宗仁が送った使者であるとされています

 

あるいは、光秀側が毛利の小早川隆景に向けて出した使者が誤って

秀吉の陣所に紛れ込んだところを捕らえられてしまい、彼が所持していた

書状により信長の死が秀吉側に確認されたとも伝えられています。

光秀から書状を託された使者はその情報伝達の任務を遂行できなかった

ことになります。

 

この使者が運ぶ書状が無事に毛利側に届いていれば・・・。

 

齋藤真一氏著「中世から道を読む」によると、戦国時代の古文書に

‘通路不自由’‘路次不自由’という文言がしばしば登場する。

 

「通路不自由のため疎遠となり・・・」

「路地不自由のため使者を送れず・・・」

「○○・○○両国間が通路不自由につき・・・」

 

武将間の書状のやり取りの中で、‘路次不自由’は多く使われるそうです。

 

同書は‘路次不自由’の背景として、3つの環境条件をあげています。

遠いという距離感(遠いという状況は前近代社会ではほぼ断絶の状態)

と自然条件、そして戦国の世では特に大きな意味を持つ軍事的関係による

‘通行障害’です。

 

この‘通行障害’が見込まれるなか、明智光秀は本能寺の変を伝える

火急の機密情報を使者に託します。

そして使者は秀吉の兵に捕らえられてしまいます。

 

書状を相手方に確実に渡し、その委細を言葉で伝える使者の能力が

しばしば戦国の世の情勢を大きく左右します。

 

山田邦明氏著「戦国のコミュニケーション」で戦国のメッセンジャー

の担い手として「使者」と「飛脚」が説明されています。

 

有能な使者には2つのパターンがあり、理解力・交渉力に長じたものと

足の速いものがそれにあたる。

 

前者は主人の内意を忘れずに遠い道のりを旅し、先方との交渉事を行う。

先方を味方に引き入れ、あるいは援軍を依頼するなど相当の才覚が要求

される役割を担う使者です。

もちろん、このような有能な使者の数はごく限られており、各所に派遣

すればすぐに、払底してしまうため、戦国大名も有能な使いと並みの使い

を使い分けていたようです。

 

後者はとにかく早く情報を伝える必要がある場合に使わされる使者。

俊足を生かし書状をすばやく先方に届ける使者です。

 

この足の速い使者と飛脚との違いについて、著者は使者とは家臣や僧侶

などの立場を持つもの、飛脚は名前を表にださない身分のひくい人々に

よって構成されたと推察しています。

 

 

戦国の時代、情報は往々にして‘不自由’となる通路を実際に移動する

生身の人の手によって書状という形で伝えられます。

あるいは、情報は時に‘うわさ話’として生身の人の口耳を介して伝え

られます。

 

いずれにせよ直接に人と対面しはじめて情報を伝え、入手します

 

以上至極当然な事ですが、大河ドラマを見るときなど必死の形相で情報を

伝える使者たちの苦労を想像してしまいます。

 

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猛将 柴田勝家と湯漬け飯の話 [戦国]

永禄三年(1560年)、25000の大軍を率いて駿府を出陣した今川義元は

尾張に侵攻、若き信長はこれを迎え撃ち、見事に撃破する。

世に名高い桶狭間の合戦です。

 

信長の領国の最前線となる砦に対し今川勢の攻撃が開始されたとの

知らせを受けると、仮眠をとっていた信長は起き上がり‘敦盛’を舞う。

 

「人間50年 下天の内をくらぶれば 夢幻の如くなり・・・」

 

そして具足をつけ、立ったまま湯漬けを食べると、僅かな近臣を従え

清州城から駆け出る。

 

大河ドラマでも度々描かれるシーンです。

具足を纏い、決死の覚悟を決めた信長が立ちながら湯漬けをかきこむ姿が

恰好よいです。

 

永山久夫氏著「戦国の食術」に、湯漬けは信長の‘先手必勝の勝負食’で

あり、出陣や軍議の前に湯漬けをさらさらとかきこんだと書かれています。

軽食ながら、気を落ち着かせる効果があったことも信長が湯漬けを食した

理由だそうです。

また湯漬けには菜がつきもので、信長の場合は尾張特産の豆味噌がその

主原料であったようです。

 

湯漬けがいつごろから食されてきたのか、ちょっと調べてみたのですが、

これがなかなかわかりません。

 

古来主食となった米の調理法ですが、平安時代の末期頃より

姫飯(ひめいい)が普及していきます。

それ以前は強飯(こわいい)といって甑で蒸された米が食べられていた

ようです。

(ちなみに強飯を日に干して乾燥させたものが干飯(ほしいい)で、

戦国の兵士たちの戦場における保存食です。軍師官兵衛の合戦シーンで

兵士たちが身にくくりつけている筒状の袋のなかにはこの干飯や梅干し、

焼き塩、干した芋の茎などの携帯食も入っています。)

 

姫飯は鍋や釜で煮たもので、古くから粥といったものをさらによく炊いて

水気を少なくしたもので、現在の白米飯と変わりません。

強飯や姫飯を湯に漬けた(盛夏の頃には水に漬けて食べる)湯漬けは饗宴

でも供されていたようです。

 

信長の時代には姫飯の湯漬けが一般的で、信長がかきこんだ湯漬けは

つまり白米飯に湯をかけただけのとてもシンプルなものであったようです。

 

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 柴田勝家 肖像画

 

湯漬けと戦国武将の話といえば、‘瓶(かめ)割り柴田’こと 

柴田勝家に伝わる湯漬けの逸話が印象深い。

 

秀吉が山崎の合戦で明智光秀を討ち滅ぼして半月後の天正10年(1582年)

627日、織田家の筆頭家老 柴田勝家の提唱により

清州会議がひらかれた。

 

会議の議題は信長遺領の配分と織田家家督の決定。

 

清州会議の結果、主君信長の仇を討った秀吉の地位はいよいよ高まり、

勝家の威信は落ちる。

 

秀吉と勝家両者間の確執は深まり、翌天正114月ついに賤ヶ岳の合戦

となる。

秀吉の調略を受けていた柴田軍の諸将は戦意に乏しく、合戦はあっけなく

秀吉の勝利に終わった。

 

敗走した柴田勝家は少数の兵に守られ、前田利家の居城に立ち寄る。

利家は柴田軍として合戦に参加していたが、戦場を離脱しすでに居城に

入っていた。

 

(利家の賤ヶ岳の合戦における立場は微妙でした。利家と秀吉との仲は

たいそう親しい。一方で利家は信長の北陸方面軍に属し、勝家の指揮下

にあった。)

 

利家と対面した勝家は、利家が賤ヶ岳の戦場で一戦もせずに退却して

いったことを一言も咎めなかった。

 

利家の戦線離脱は勝家側からすればあくまで裏切り行為ではあったが、

勝家は利家に対しこれまでの協力を感謝し、今後は秀吉を頼れと言った

そうである。

 

そして利家に所望した湯漬けを食すと、

柴田勝家は 越前の国 北ノ荘に向け立ち去った。

 

 

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山中鹿介幸盛 ー 願わくば、我に七難八苦を与えたまえ [戦国]

「その百折不撓(ひゃくせつふとう)の精神の強靭さは、

驚嘆すべきものがある。日本歴史上おそらく類がないであろう。」

 

海音寺潮五郎氏著の「武将列伝―山中鹿之介」に鹿介を評してこう

記されています。

 

山中鹿介幸盛の主家、尼子氏は経久の代に山陰地方を席巻、近隣の諸国

打ち従え、天文初年(1532年)には11か国の国人を従える大大名家

となる。

その後、経久の子晴久が跡目相続をしたころより安芸の毛利元就に

圧迫され、尼子氏は次第に衰運に向かう。

そして晴久の嫡子義久の代、尼子氏は永禄9年(1566年)にその本拠、

富田城が毛利軍の猛攻を受け陥落、戦国大名としての尼子氏は滅亡した。

 

山中鹿介は富田城の奪回のためひそかに同志を募る。

尼子の血筋を継ぐ勝久を擁して、尼子氏再興のため立ち上がった。

 

一時は出雲地方をほぼ手中とするほどの勢いを得るが、毛利軍との

決戦に敗れ、勝久と共に毛利氏の捕虜となる。

その後逃亡し、再び一時的に尼子の復興に成功するが、

再び毛利に敗れ落ち延びる。

 

鹿介は幾度となく苦境に陥るが、尼子再興に死力を尽くす。

幾度敗れても、尼子再興をかけて立つ。

 

織田信長に援助を願い、天正5年(1577年)秀吉の中国遠征が始まると、

その先鋒隊となって、勝久とともに播磨の上月城に入城し

再度尼子氏復興を目指す。

 

上月城を得て鹿介ら尼子軍は再び勢いを戻すが、織田方にあった三木城

の別所長治が離反すると、信長は秀吉に陣を払い三木城攻めに

向かうよう命じる。

 

毛利の大軍に囲まれ孤立無援となった上月城は落城。

勝久は自害してこの世を去り、捕虜となった鹿介もついに謀殺される。

 

尼子家再興の道は絶たれる。

 

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 芳年武者絵 山中鹿之助

 

「願わくは、我に七難八苦を与えたまえ」

尼子の再興を決意した鹿介が三日月に祈ったとされる逸話が有名です。

 

鹿介は16歳の時に病弱な兄に代わり家督を継ぐが、この時に

代々山中家に伝わる三日月の前立てと鹿の角の脇立のついた

冑(かぶと)を譲り受け、名を基次郎より鹿介に改めます。

 

名を改めた鹿介が月に向かい、

「願わくは三十日のうちによき敵に会わせたまえ、これを討って

武名を上げたいと願う」

と祈る逸話も伝えられている。

 

鹿介は江戸・幕末にかけて、主家の再興にその生涯を捧げた忠臣として

その名が喧伝され、頼山陽や勝海舟にも高く評価されます。

 

また昭和12年には、小学校の国語教科書に‘山中鹿之助’を主人公

とした「三日月の影」が登場しその名は全国的に知られるところと

なったようです。

 

鹿介が三日月に主家再興を祈るイメージがいつ定着したのか

定かではありません。

 

ただ古来霊力の宿るとされる三日月に祈る鹿介の姿は、

確かに尼子の復興に執念をかけたその生涯を表象しているよう

思われます。

 

 

お読み下さり有難うございます。

侍気分の商品が月刊「歴史人」6月号「信長の謎100」特集に

掲載されます。


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