「彼は中背痩躯で髭は少なく、少し憂鬱な面影を有していた。

極めて戰を好み、武技の修行に専念し、名誉心強く、義に厳しかった。

戦術に極めて老練で、非常に性急であり・・・

彼はみずからに加えられた侮辱に対して懲罰せずにはおかなかった。

彼は日本の全ての王侯を軽蔑し・・・」

 

「彼がわずかに手をふり‘退け’と合図をすれば、どんなに多く広間に

詰めていても、家臣たちは一瞬にしていなくなってしまう。家臣たちの

狼狽の様子は、彼らの目の前に突然獰猛な牡牛が現れたかのようである」

 

当時、来日し信長の知遇を得たイエズス会のパードレが記した信長の

人物評です。

 

大河ドラマや小説などで描かれる信長の人物像、

 

‘既成の価値を歯牙にもかけない近代的な合理主義精神の持ち主'

‘残忍ともいえる無神論者、 あるいは魔王的な破壊者’

 

はイエズス会のパードレたちが記した人物評に多く合致しています。

 

「軍師 官兵衛」でも、‘便利な道具’である家臣たちは獰猛な牡牛の

ごとき信長の意向に沿うように細心の注意を払い、期待される成果を

あげるため必死に努めていますね。

 

 

尾張を平定した信長は、永禄10年8月稲葉山城を攻略、本拠を

稲葉山城改め岐阜城に移す。

宿願であった隣国美濃の掌握に成功した信長は、ここに初めて

「天下布武」の4文字を刻んだ印判を使用します。

同年11月に信長が美濃の士豪たちに宛てて発行した知行安堵状に

「天下布武」印判の使用が初見されています。

 

天下布武-天下に武を布(し)く

 

武による天下平定の意思表明です。

 

翌年の永禄11年7月、越前の朝倉義景のもとに庇護されていた

足利義昭を美濃に迎えた信長は、同年9月室町幕府体制の復興を

大義名分に掲げ、ついに上洛(京の都に入る)の途につきます。

 

この時信長がすでに明確な天下統一の意思と構想をもって、将軍義昭を

伴い上洛をはたしたのかどうか見解がわかれるところのようです。

 

ただすでに永禄8年には信長は麒麟の鱗という文字の草体をもとにした

花押(署名代わりに使われる記号、符号)を使い始めています。

麒麟は中国で生み出された想像上の霊獣で世の中がよく治まっている

ときにその姿を現すとされています。

 

室町幕府体制の復興はあくまで信長上洛の大義名分に過ぎず、独自の

天下統一の政権を指向しての上洛であったと思われます。

 

信長上洛

天下布武

 

信長の威風に天下は騒然となります。

天下布武を掲げ、天下平定に邁進した信長がどのような政治体制を

目指していたのかどうかわかりません。

日本の中世を終焉させ、近世を切り拓いたとされる信長が具体的に

どのような天下平定のビジョンを持っていたのか?

 

信長の行動、振る舞いをみると、信長を突き動かしたものはビジョン

という生易しいイメージではなく、むしろ‘暴風的な衝動’であった

ような気すらしてきます。

 

18歳で織田家家督を継いだ信長は桶狭間の戦いをふり出しに49歳で

非業の死を迎えるまでまさに戦闘の連続の日々を送る。

死と隣り合わせの緊張の連続と、「敦盛」の一節

「人間五〇年、下天の内をくらぶれば・・・」

小唄「死のうは一定(いちじょう)・・・」を好んだといわれる

信長の死生観が信長の天下布武への衝動をより苛烈なものにしたのかも

しれません。

 

本能寺で迎えた信長最期の時、信長がとった行動、振る舞いも

また信長らしい。

 

「是非に及ばず」

 

光秀謀反と知った信長は無駄な抵抗と理解はしたが、

「みずからに加えられた侮辱」に対して激しい怒りの衝動にかられ、

みずから迫りくる敵兵に向け矢を射る。

弓の弦が切れると、槍を持って戦う。

 

重傷を負い自決を覚悟するまで、信長は死力を尽くし戦った。

 

 

 

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