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織田信長、金平糖を食す お砂糖の話 [戦国グッズ]

東洋経済電子版に砂糖について興味深い記事がありました。

TPP交渉の進展で、砂糖が今後も課税維持の聖域として守られるのか

予断を許さない展開・・・との内容でしたが、記事の中で三井製糖

の神戸工場の話がありました。

 

大量の精製前の砂糖が積まれた工場倉庫、クラクラするほどの甘い香り。

でもアリは寄ってこないのだそうです。

その正確な理由は分からないらしいのですが、あまりに大量の砂糖に

囲まれるとアリは体液を吸い取られ死んでしまうため、危険を感じて

アリが寄ってこないことが考えられるようです。

 

また前置き長くなりましたが、ちょっと砂糖の話です。

 

日本に砂糖を伝えたのは、唐僧の鑑真です。

745年に鑑真が唐の国から日本にやってきたときに、時の孝謙天皇に

砂糖を献上した記録があるそうです。

 

その後ごく少量の砂糖が国外から輸入されますが、当時は貴重品として

薬として使用されていました。

 

15世紀から16世紀のいわゆる大航海時代以降、南蛮人(ポルトガル人・

イスパニア人)により奢侈的な調味料として日本に持ち込まれます。

 

ポルトガル人は、砂糖や氷砂糖に卵・小麦粉を加えた当時としては非常

高価な砂糖菓子を日本にもたらしました。

金平糖、カラメル、ボーロ、カステラといった南蛮菓子です。

 

永禄12年(1569年)にポルトガルのイエズス会士ルイス・フロイスが

二条城に織田信長を訪問した際の献上品の中に、あの有名なビロード

の帽子や鏡などと並んでコンフェイトスがありました。

金平糖です。

 

信長は金平糖を食した最初の日本人になります。

 

また一方で、フロイスが持参した目覚まし時計をいたく気に入り、

喜んだ信長が彼に美濃産干し柿を与えたとの記録もあります。

信長ほどの権力者ですら、当時甘味は天然の果物から

得ていたようです。

 

宮崎正勝著「知っておきたい食の日本史」によれば、日本国内で砂糖

栽培が普及するのは徳川吉宗が1727年に琉球からサトウキビの苗を

取り寄せ、これを浜御殿などで栽培させた以降のことのそうです。

 

1729年には平賀源内が大阪の砂糖問屋に日本で最初の純白の製糖

である三盆白(さんぼんじろ)を作らせています。

 

砂糖の普及は和菓子の多様化に大きく貢献しますが、この和菓子の消費

大きく貢献したのは江戸大奥の女性たちであったようです。

 

文化・文政期(18041829年)頃の大奥での砂糖消費量は一日当たり

600kgに達したと言われています(大奥には600~1000人の女性がいた)

 

大奥での砂糖の大量消費は、幕府財政圧迫の一因になったとも言われ

時の財政担当者を悩ましています。

 

NHK篤姫で松田翔太さんが演じた徳川家茂と

奥様の和宮(堀北真希さん)はともに大の甘党として知られています。

 

芝増上寺から発掘された家茂公の遺骨調査から、家茂公は32本の歯

のうち実に30本までが虫歯でした。

 

和宮様も虫歯に悩まされていたようです。

 

当時の江戸庶民の平均的な虫歯本数は4本から5本と言われています

ので、家茂公の虫歯本数は際立ちます。

 

もちろん砂糖が直接的な原因になったというよりも、将軍家の方々の

普段の食生活などが虫歯に影響していると思われます。

 

彼らは平常の食事において庶民のように固くごつごつした食べ物を

摂りませんので、口腔内の歯垢除去が不足しており、虫歯に・・・

 

話がとんでしまいそうなのでここで終了させていただきます。

 

お付き合い下さいまして有難うございます!

 

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