吉田松陰 二十一回猛士マグカップ [幕末グッズ]
吉田松陰は多くの手紙を残しています。
僕は特に兄の梅太郎と交わした手紙が好きです。
深い兄弟の愛情が感ぜられ、何とも微笑ましい気持ち
になります。
松陰は兄に「自分はこれまで3回の猛を奮ったから、あと18回の
猛を奮う覚悟です」と兄への手紙に書きます。
兄の梅太郎はこれに対し、「決意は立派だが、あと18回も
猛を奮われたらたまらないので、どうか勘弁願いたい」と
返書します。
二十一回猛士の号は、密航失敗後に松陰が自らつけたものです。
二十一は松陰の生家の姓である〈杉〉を崩すと十、八、三となり、
これを足し合わせて二十一になる、また猛士の猛は松陰の通称名である
寅次郎の寅=猛からつけ、よって二十一回猛士の号を名乗ったと言われて
います。
1854年3月25日の深夜、渡海の志を抱く松陰先生と弟子の重之輔は
下田に停泊中のペリーの乗艦ポーハタン号を目指し小舟を漕ぎ出します。
松陰先生が3回目の猛を奮った時です。
この密航の情景をのせたマグカップを作りました。
ご興味のある方は是非侍気分HPをご覧ください。
高杉晋作 Tシャツ 雷電風雨 [幕末グッズ]
高杉晋作は3度の脱藩を繰り返す。
3度目の脱藩から帰藩した高杉は英米仏蘭四か国の連合国艦隊
との講和を藩から命ぜられる。手には蛇の目傘を持ち、芸妓数人を連れて
講和の席に現れた高杉晋作は、巨額の賠償金を求める連合国側に対し、
長州藩がこれを払う道理なしとの主張を押し通す。
長州藩内の体制は幕府への恭順を主張するいわゆる俗論党が主流となっていたが、
晋作は創設した奇兵隊を結集し俗論党に戦いを挑む。これに勝利し、藩政は正義派
が握り、藩は再び尊王に復す。
その後幕府より第二次長州征伐の命を受けた松山、小倉などの諸藩が長州藩境に
迫ると、晋作はまさに神出鬼没な指揮を振るいこれを撃破。長州側が勝利を得る。
しかし結核に冒された晋作は29年の短い生涯を終える。
明治42年建立された高杉東行碑への揮毫を依頼された伊藤博文は、高杉晋作を評し、
「動けば雷電の如く 発すれば風雨の如し 衆目騒然として 敢て正視するものなし
此れ我が東行高杉君に非ずや」と記した。
まさに風雲急を告げる幕末期に時代をロックし、駆け抜けた高杉晋作を
モチーフとした高杉晋作 雷電風雨Tシャツを作りました。
ご興味のある方は侍気分HPをご覧いただければ幸いです。