「その方重々不届きにつき市中引き回しの上、打ち首獄門に処する!」

厳しい表情を浮かべ判決を申し渡す大岡越前。

がっくりと肩を落とす悪商人の○○屋。

 

ご存知、大岡越前。

 

大岡越前守忠相(ただすけ)は、延宝5年(1677年)に2700石の

旗本の家に生まれ、36歳で伊勢の国の山田奉行に着任。その後普請奉行

を務め、吉宗(暴れん坊将軍です)が徳川第8代将軍職を継ぐと

江戸町奉行に累進、以後19年の長期にわたり町奉行職を務めたのち

寺社奉行となり、ついには三河国西大平(現在の岡崎市)に陣屋を置く

1万石の大名に登りつめます。

 

出世街道を邁進したエリート中のエリート官僚です。

 

町奉行職在任中は吉宗が進めた享保の改革をよく支え、その行政手腕が

高く評価されています。

 

大岡越前守のおこなった公正で人情味ある裁き(大岡裁き)は

時代劇でもシリーズ化され人気です。

 

大岡裁きには多くの逸話が残されていますが、

特に有名なのは「子争い」の名裁きでしょう。

 

2人の女が「この子は私の子どもです!」と互いに譲らず、

実母であることを主張します。

大岡越前はこの2人の女にそれぞれ子どもの片方の手を

掴むよう命じます。

 

「お前は右の手を、そっちの女は左の手を掴め。互いに子どもの

腕を引っ張り勝った方が実母である」

2人の女が双方から手を引っ張りますから子どもは痛がって泣きます。

一方の女が泣く子を憐れみついに手を放します。

 

 大岡越前がそれを見て審判を下します。

「子をおもい思わず手を放したおまえこそ実の母親だ」

 

 

もうひとつちょっといい話(?)

 

不貞を働いた男女。

「自分に非は無い。誘ったのは女の方だ!」

男は必死の釈明をします。

男の釈明に今一つ納得のいかない大岡越前。

女がちょっとご年配だったようです。

 

困った大岡越前は自分の母親に

「はたして女性の性欲は幾つになるまであるものでしょうか?」

と問いかけます。

問われた母親は静かに火鉢の灰を箸でかき回した。

 

灰になるまで

 

母より解答を得た大岡越前、この不貞事件を見事に

解決したのであります。

 

これにて一件落着!

 

 

 TBS時代劇 大岡越前

 

 

ちょっと江戸のお裁き(刑事事件)について。

 

刑事裁判の手続きを吟味筋と言います。

吟味筋の一連の手続きは、犯罪捜査・事実の審理・刑罰の決定・

判決の申渡し・刑の執行です。

現在と大筋変わりません。

 

犯罪捜査の主力は同心と同心が私的に雇う目明し(岡引)です。

*同心、目明しについてはよろしければ

「必殺 中村主水の表家業と目明しについて」をお読みくださいね。

 

刑事事件が発生して容疑者が特定されると、同心・目明しが被疑者を

捕縛して、自身番屋に連行します。

時代劇で○○親分が「おい、お前ちょっと番屋まで来い」と言って

連れ込む小屋です。

ここで取り調べが行われ、有罪の嫌疑が濃厚となれば被疑者は

町奉行所送致されます。

 

ここより町奉行所に送られた被疑者の吟味が始まります。

取り調べ(吟味)の最初の席には町奉行が出ますが、

あとは下役に任せます。

被疑者には未決拘留の処置がとられ、牢屋に入ります。

「吟味中は入牢を申付ける!」

 

江戸の牢屋は小伝馬町にありまして、全国最大規模です。

封建の世ですから、身分によって牢屋の部屋の格式?も異なります。

江戸の刑罰には禁固刑、懲役刑は基本ありませんので、

牢屋はあくまで未決拘禁の場所で、刑罰としての入牢はありません。

牢屋は現代で言えば刑務所ではなく拘置所です。

 

牢内の待遇はかなりひどいものであったようです。

多くの牢内病死者が記録されています。

 

さて、その後の取り調べですが、これは町奉行所の吟味方の与力が

行います。

取り調べは事件の関係者一同の自白を得ることに主眼が置かれます。

江戸時代、自白は何物にも勝る確定証拠となりますので、

自白を得るための拷問も行われました。

ただ、自白を得るためにむやみに拷問に頼るようでは、吟味方の役人

しても自分の取り調べ下手を宣伝してしまうようなものですから、

時代劇でしばしば見られる‘気分しだいの拷問’は

なかったものと思います。

 

吟味方与力たるもの「落としの山さん」の称号

欲しかったはずでしょう。

 

自白が得られれば、供述書(口書くちがき)が作成されます。

その後供述書の最終確認を奉行が出座して行います。

お白洲での審問です。

関係者一同の前で供述書が読み上げられ、供述内容確認の捺印(爪印)

がされます。

犯罪事実がこれにより正式に確定されます。

 

以後、この供述書をもとに書面審査で刑罰が決定されます。

奉行が判決を考えるのですが、奉行が自分一人の権限内で判決を

言い渡せる範囲は中追放という刑罰までです。

重追放以上に重い刑罰を言い渡すには老中(現代の大臣に相当)の許可

必要でした。

また老中といえども遠島や死刑の判決を決定するには将軍の許可を必要

としました。

大岡越前も金さんも勝手に罪人に死刑宣告することは

できなかったわけです。

刑罰の決定は法典、過去の判例をもとにかなり厳密に行われます。

 

判決が決まると、その申し渡しがされます。

判決申し渡しは、奉行所のお白洲で奉行が口頭で下します。

これで落着です。

上訴の制度はありませんでした。

また死刑については奉行所ではなく、牢屋内で検使与力が申し渡しを

おこない即座に執行されました。

 

石井良助氏著「江戸の刑罰」より江戸の主な刑罰をみると、

以下のように分類されます。

 

生命刑(磔、獄門、火罪、死罪、下手人・・・)

身体刑(剃髪、たたき)

自由刑(遠島、追放、閉門、晒・・・)

財産刑(闕所、過料)

身分刑(奴、一宗構・・・)

栄誉刑(役儀取上、叱)

 

冒頭の「市中引き回しの上、打ち首獄門に処する!」に戻ります。

 

引き回しは死罪以上の判決を受けた罪人に課された付加刑で、

その行程(引き回しのルート)も決められていました。

獄門は打ち首となったあと、死体は試し切り(刀剣の切れ味を試す、

その専門職として山田浅右衛門が時代劇などでも有名)とされ、

刎ねられた首を3日間さらす刑罰です。

 

現代からすれば考えられない過酷な刑罰だったのです。

 

人柄温厚な大岡越前も時として峻厳な判決を下したのであります。