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黒船がやって来た!! [幕末グッズ]

*戦国グッズ・幕末グッズの侍気分は201411日・2日の両日

鎌倉にて臨時出店致します。詳しくは侍気分HPをご覧ください。

 

 cap5.JPG

 

侍気分 黒船ニットキャップ

 

 

 

黒船が来た!

 

ペリー提督が率いる4隻の黒船(蒸気船)が浦賀沖に現れます。

時は嘉永6年6月3日(1853年7月8日)。

 

「泰平の眠りをさます上喜撰 たった四はいで夜も眠れず」

 

上喜撰(じょうきせん)は宇治高級茶のブランド名、

黒船がたった四隻現れただけで、徳川幕府が慌てふためく姿を

うたった狂歌です。

 

黒船来航は徳川の世に強烈な危機意識をもたらしました。

 

急ぎ西欧諸国に追いつくための近代化をすすめ、危機を乗り切るべし!

危機をもたらすものは、断じてこの国の領土に上陸させてはならない!

 

開国!と攘夷!に国論が二分され、攘夷はやがて討幕に向かいます。

この年より僅か15年後に幕府は崩壊します。

黒船の来航は幕末維新胎動のまさにきっかけとなった事件でした。

 

「幕末風塵録」という本に、この黒船来航について面白い話が紹介

されています。

 

4隻のペリー艦隊は翌年の再航を約束して、江戸湾を去ります。

対応に苦慮した幕府は、広く全国の大名、幕府役人、諸藩の藩士、

加えて一般の町民に対しても「

良い案があれば忌憚なく意見を建言せよ」と布告します。

大名や役人たちの意見は「なるべく穏便に」というものが大勢を

占めますが、江戸町民の意見は威勢のいいものが多い。

 

吉原遊女屋の主人 藤吉 の意見

「夜中、黒船の下の海底に潜水夫を使って鉄の棒をたてる。

干潮になれば船の吃水が下がる。そうすれば船底に穴が開いて沈没

するに違いない。

この案が成功したら、褒美として吉原遊郭の繁盛のため山谷堀も船宿

経営の免許を下さい。」

 

材木問屋 中村屋源八 の意見

「江戸湾入り口の水底に丸太杭を打ち込み、水柵を2重3重に設けて、

柵の内側に石を詰め込む。

水柵の内通りに筏を組んで、その中に味方の船が通る水門を

開けておく。

黒船が来たら水門を閉めて通航不可能にする。

この意見が採用されましたら、水柵には私どもの木材をご使用下さい」

 

江戸町民の抜け目なさが発揮されています。

 

またペリーが下田に再航した時には、こんな話が残っています。

 

村人たちの‘ある振る舞い’に、ほとほと困惑したペリー提督は

幕府役人に抗議します。

その振る舞いとは、村人が面白半分に水兵さんに春本(エロ本)を

与えたり、ボートに投げ込んでくるというものでした。

村人たちのにやついた顔が目に浮かびますが、

あまり上品とはいえない お・も・て・な・し です。

 

 

外国人にたいする認識はごく少数の開明的な人たちを除けば、

武士もまた庶民と同程度のものでした。

 

ペリー率いる黒船来航から10年後の文久3年(1863年)に

薩英戦争が勃発します。

薩英戦争とは、前年におきた生麦事件(島津久光の行列を横切った

英国人4名を薩摩藩士が殺傷)の賠償金請求のため鹿児島湾に入港した

英国艦隊と薩摩藩のあいだでおこなわれた戦いです。

 

英国軍艦への斬り込み決死隊を募った薩摩藩庁は、決死隊隊員たちに

このような訓示を与えています。

「諸君が今より戦う異人は足にかかとが無い。だから靴にかかとを付け

歩いているのである。異人と戦い危機となれば、靴を奪ってしまえ!

靴を失えば、異人どもは転倒して歩けなくなる」

 

 

黒船来航よりおよそ170年後の2020年、東京オリンピック

が開催されます。
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