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買って買って買いまくる 東福門院和子 [幕末 江戸]

その高貴な女性は72歳で亡くなる前の僅か半年もの間に、計340

もの衣装を注文している。

その合計代金は現在の価格でおよそ15,000万円。

 

72歳の老婆が半年間に雁金屋という御用呉服店に作らせた衣装

だから、ただただ驚くほかない。それはまさに狂気としかいいようが

ない。

大石慎三郎「江戸時代」にある高貴な女性の「狂気としかいいよう

がない」買い物の記述があります。

 

彼女は徳川2代将軍秀忠と正妻お江与(大河ドラマになった江姫です)

の末娘、東福門院和子です。

 

1615年に大阪城落城し豊臣氏が滅ぶと、「武家諸法度」、

「諸宗緒本山諸法度」とならんで「禁中公家諸法度」が徳川幕府より

出されます。

この公家諸法度により朝廷・公家は幕府の統制下に組み入れられます。

 

天下を手中に収めた徳川家は、天皇の外戚となってその権威を確たる

ものとするため、2代将軍秀忠の末娘和子を後陽成天皇の第三皇子三宮

(後水尾天皇)のもとに送り込もうと画策。

1620年和子入内。

後水尾25歳、和子14歳の時でした。

日本で最も豪華絢爛な婚儀であったそうです。

 

外戚の地位を通じて朝廷支配をより直接的なものとする幕府と強圧的な

幕府の圧迫を快く思わない後水尾天皇。

大石慎三郎「江戸時代」には「後水尾天皇が徳川氏の力によって事ごと

にその意思を踏みにじられ幸福とはいえなかったと同様、政略に利用

された和子の場合も後水尾同様不幸であったろう」と記述されている。

 

1629年、第二皇女興子内親王(明正天皇*称徳天皇以来860年ぶりの

女帝の誕生)に皇位を譲位し、後水尾天皇が退位。

念願の外戚の地位を得た徳川氏にとって、もはや後水尾天皇と和子は

御用済みの存在となりました。

後水尾天皇も徳川への遠慮なく、他の数多くの女性に関心を移し、結果

40名近い子女が誕生したそうです。

(かって和子の入内が決まっていながら、他の局を寵愛し皇女を

生ませた後水尾天皇を幕府は厳しく糾弾し、結果後水尾天皇の側近の

公家数名が幕府によって処分されています。)

 

後水尾天皇の退位に伴い、23歳の若さでいわば隠居の身となった和子。

東福門院と号した和子は亡くなるまでの残り半世紀をある情熱に

捧げます。

 

「衣装狂い、狂気のような着物の新調にあけくれた一生であった」

 

夫と生家からの‘関心’をなくした不幸な、この高貴な女性の

衣装狂いは和服文化の隆盛と日本の芸術を代表する天才尾形光琳の誕生

に大きな貢献を果たしている。

 

尾形光琳.jpg

 

尾形光琳は1658年、京都の呉服商「雁金屋」の当主・尾形宗謙の次男

として生まれます。

 

雁金屋はお江与姉妹、徳川秀忠、高台院など江戸初めの

超セレブリティーを顧客とし、中でも最大の顧客東福門院の大量発注に

よって繁栄を極めた呉服屋(高級オートクチュール店)さんです。

 

雁金屋は最大顧客の東福門院の死去、その後の大名貸しなどの経営失敗

により没落しますが、尾形光琳が生まれ青年期を過ごした時期はまさに

絶頂期にありました。

 

雁金屋は超セレブリティー顧客たちの注文に答え、着物の制作技術を

磨き上げ、着物文化の花が開きます。

 

宮中に小袖を着用する習慣を持ち込んだと言われる東福門院はまさに

その後さらに完成度を高めていく着物文化の最大の貢献者だったのです。

 

狂気ともいえる衣装狂いが一つの文化を育てる。

 

現代であれば、

有り様はだいぶ異なりますが、

コミケも世界に誇る日本のサブカルチャー、萌え可愛い文化を育てる

最大の貢献イベントになってるかもしれませんね。

 

なにかと批判も多いコミケですが、あの狂気ともいえるイベントは

確実に何かを生んでいると思われます。

 

戦国・幕末グッズ 侍気分HP

宜しければご覧ください http://samuraikibun.com/

 

 


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