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鹿鳴館 西欧に追いつけ! [幕末 江戸]

 捨松.jpg

 

録画しておいた八重の桜

「鹿鳴館の花」いまごろ見ました。

 

会津藩家老山川家の末っ子であった捨松は11歳の時

岩倉使節団と共に渡米、帰国後薩摩の大山巌と結婚。

その洗練された西洋風マナーと美貌から鹿鳴館の花と

呼ばれた。捨松という名は、前例の無い女子の留学に

際して彼女の両親がさき という名を改名して末娘

に付けたもの。

「捨てた気持ちで娘の帰国を待つ」から付けられた名前

だそうです。

 

鹿鳴館は国外からの賓客、外交官をもてなすための

言わば社交場であり、当時の外相井上馨の提唱により

明治政府が明治16年に建設しました。

江戸末期に外国と結ばれた‘不平等条約’の改正を悲願

とする明治政府が開いたこの社交場は井上馨が外相を辞任

する明治20年まで時の政府が推進した欧化政策の象徴的

な存在として、‘鹿鳴館外交’の場となった。

 

当時の明治政府がとった、言ってみれば必死の欧化政策。

それを象徴する鹿鳴館。

(日本は刀を差したサムライが跋扈する未開の遅れた国

では断じてなく、貴方たちと同等の西欧流のマナーと

高い文化を持った国である。日本は平等な条約を結ぶに足る国家

なのだ。 

我らが開く鹿鳴館の舞踏会へようこそ!

 

逸話を一つ。

 

英国の詩人エドウィン・アーノルドは明治22年に来日した

際に日本について非常に好意的なスピーチをする。

「日本の景色は優美、その芸術は絶妙、人々は高い礼節

を持つ。地上にある国で最もパラダイスに近い国ではないか。」

 

このスピーチについて、新聞各社の論説は一様に憤激模様!

「アーノルド氏のスピーチは我が国の政治、産業、軍備に

ついて触れず、もっぱら風景や美術について終始した。

実に不愉快だ。」

 

当時の日本の気分が察せられる話です。


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コメント 4

aloha

逸話、面白いですね。
これほどの賞賛を不愉快だと思うとは(^^;)
日本もそんな時代だったんですね。
by aloha (2013-11-23 18:41) 

suhr0045

アーノルド氏のスピーチは最大級の賛辞のように思えますが…

ちなみに、ブラジルに行ったときに「忍者はいるのか?」と聞かれたことがありますので、まだそういうイメージを持ってる人も多いかもしれませんね
by suhr0045 (2013-11-23 18:44) 

アナログ侍

aloha さん
コメント有難うございます。
そのようです。司馬遼太郎の「坂の上の雲」より(登ってゆく坂の上の青い天にもし一朶(いちだ)の白い雲が輝いているとすれば、それのみをみつめて坂を登ってゆくであろう)。そんな時代だったようです。
by アナログ侍 (2013-11-23 21:11) 

アナログ侍

suhr0045 さん
コメント有難うございます。
忍者と芸者ガール、あとカリテー(空手)は日本のイメージとし
健在みたいです!
by アナログ侍 (2013-11-23 21:18) 

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