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会津藩主 松平容保  義に殉ずる [松平容保]

 

松平容保は文久二年(1862年)会津藩兵千余名を率いて上洛、京都の治安維持に努めます。翌文久三年薩摩藩と協力し、八月一八日の政変を敢行し尊攘激派の公卿、長州攘夷派や諸藩脱藩浪士を京の都から一掃しました。

孝明天皇はこれを大いに喜ばれ、同年109日付で松平容保に宛て御宸筆の手紙を送ります。またその手紙の箱には下の2首の和歌が収められていました。

 

和らくもたけき心も相生のまつの落葉のあらす栄へむ

武士とこころあはしていはほをもつらぬきてまし世々のおもひて

 

松平容保は深く感動したと想像できます。

(八重の桜で綾野剛さんはかなり素晴らしい演技をしていると思います。感激し上気した顔の表情を見事に表現していたと思います。)

 

松平容保.gif

 松平容保

 

「大君の義、一心大切に忠勤を存すべく、列国の例を以て自ら処るべからず、若し二心を懐かば、則ち我が子孫にあらず、面々決して従うべからず」

この会津家訓第一条と孝明天皇が松平容保へよせた深い信頼にたいする感激が容保のその後の姿勢を決したと思います。

 

しかし、この御宸翰(天皇の手紙)の存在が公になるのはなんと明治44年です。

 

松平容保は新政府によって朝敵と名指さしれても、御宸翰を納めた竹筒を終生懐から離さず、朝敵の汚名に耐え、自ら御宸翰の存在を明らかにはしなかった。

逆賊の汚名を受けた旧会津藩士の雪冤運動の一環として、山川浩・健次郎兄弟の発案で

「京都守護職始末」という歴史書が明治30年に編纂開始。明治35年に脱稿されますが、

山川健次郎の手元に秘蔵されます。(松平容保は明治26年、山川浩は明治31年に死去)

 

明治新政府の要職者の間にも徐々に「京都守護職始末」の存在は知られてきます。御宸翰をその根本史料としているため、同書が明治維新の成就があくまで勤皇という大義名分によるものとした政府の立場をある意味覆すものになるとの懸念が政府要人にありました。

 

時に会津松平家の財政難を救うための運動を繰り広げていた山川健次郎は、松平家救済金を宮内省から下賜される代償として「京都守護職始末」の出版を当分の間見合わせることとしました。

 

「京都守護職始末」が公刊されてのは明治44年、戊辰戦争が終結してから実に40年以上が経っていました。


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